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■催事実績内容 〜 2016年 〜
■月例会

・第124回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: CGで描く道頓堀の今昔
 日 時: 2016年12月21日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 藪田 貫(やぶた ゆたか) 様
      ( 兵庫県立歴史博物館館長 )
 場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
 
道頓堀辺りの400年の歴史の大半は芝居街でした。道頓堀川が完成したのが1615年、江戸時代の始めで、それを機に川の両岸に多くの芝居小屋が立ち並び、演劇の街として発展してきました。昭和の終わり頃まで、道頓堀には「五座」とよばれる5つの劇場「浪花座」「中座」「角座」「朝日座」「弁天座」が立ち並んでいました。1653年に芝居名代5株が公認されたことに始まり、昭和の終わりから平成の始めにかけて、五座は事実上消滅し現在に至っています。講師の藪田貫様は、関西大学教授としてご在職中に、かつての芝居街を思い出し、それを街作りの核にしようということで始められた「CG化プロジェクト」について、その成果をご披露頂きました。 CGという3次元映像に道頓堀を復元しようとすると、昔の建物や街並み情報が必要となりますが、幸運にも、いろんな資料が発見でき、CGを実現する事ができたそうです。1655年写しの道頓堀川大絵図、1798年の摂津名所図絵「角座」、1850年頃「難波の花櫓」の芝居小屋と茶屋、山田伸吉と長谷川幸延の「道頓堀今昔」、「道頓堀」創刊号第3面の街並み図、著名人の証言、等をもとに映像に復元されたそうです。すばらしいCGの出来栄えにビックリしました。また、道頓堀のすぐ南東にある千日前は、刑場、火葬場、墓場の「千日墓所」があったそうで、当然、道頓堀と深い関わりがあったはずで、心中物の浄瑠璃が生まれる社会環境があったと思われ、新しい発見をしました。
 

 

藪田 貫 様

 

 

・第123回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: ものがたりの時代背景を知って観劇を
 日 時: 2016年11月30日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 尾嵜 彰廣(おざき あきひろ) 様
      ( 神宗 八代当主 )
 場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
 
『心中天網島(しんじゅう てんの あみじま)』は、近松門左衛門が実際に起きた心中事件を脚色して書いた人形浄瑠璃で1720年に大坂竹本座で初演されました。現在も上演されていますが、その内容や筋書きは当時の時代背景を知らないと理解できません。
尾嵜彰廣様は、明治時代の祖母や生き証人のような方々と船場で過ごされ、江戸時代から続く商習慣、しきたり、商人の心構え等を肌で感じ学ばれ、これをスキルに近松門左衛門が描く江戸時代の大坂研究者として活動されています。講演では、女殺油地獄、冥途の飛脚、心中天網島の作品と時代背景についてお話を頂きました。
心中天網島では、「旦那が花街で恥をかけば商売ができなくなる」「嫁入りに持参した物は夫が自由にできない」「離婚した母親は子供を残して実家に帰らねばならない」時代だったなど解説いただきました。
時代背景を学ぶ機会が欲しいと思う講演でした。
 

 

尾嵜 彰廣 様

 

 

・第122回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: 「移民」問題 − 現代の危機の背景 −
 日 時: 2016年10月26日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: Hans-Joachim PEPPING (ハンス・ヨアヒム・ぺピン) 様
      ( 大阪府立大学教授 Ph.D. )
 場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
 
昨年2015年は「欧州難民危機」と云われる年でした。
ドイツはこの年、約 110 万人の難民を受け入れたと云われています。一般的に「移民」とか「難民」とか云う表現がありますが、どうやら国際的に合意された定義がない様です。通常の居住地から他国へ移住する場合、“自発的”な移住と“非自発的”な移住が考えられます。自分の意思に反して強制的に移住を余儀なくされる場合が「難民」ということになる様ですが、実は、ここでも背景や動機、更には国籍に関する要件も絡み合って、必ずしも明確に分類する事が出来ず、非常に多様で複雑な問題になっている様です。この定義の曖昧さが「移民」や「難民」問題の議論を難しくする要因の一つにもなっている様です。
ドイツは今回の「欧州難民危機」で、多くの難民を受け入れましたが、そもそもドイツは第2次世界大戦後急速に移民の受け入れを行った国です。良く知られている通り、1950年代から1970年代にかけて約200万人を超えるトルコ系移民労働者がドイツに流入しましたし、東西冷戦が終結した後は東ヨーロッパから大量の人が流入しました。この結果、ドイツでは移民の背景を持つ住民が全人口の約19%を占めるまでになっています。所謂本来の”ドイツ人”の人口は少子化などを背景に年々減少傾向にありますので、移民の割合は今後も更に増加していくことになると思われます。
ご講演頂きましたハンス・ヨアヒム・ぺピン教授は、「ドイツが置かれている状況は歴史的な視点で考察する必要があり、現在の「移民」の波は現代ドイツにとって一番大きな危機だ」というお考えで、「詰まるところ、移民問題すなわち難民問題はドイツを破壊するための計画の一部でしかない」と結論付けられました。また、ドイツの破壊にユダヤ系の人達が強く関わっていると・・・。
講師のお考えの理解を深める為、もっとお話をお聞きしたり、質疑を行ってみたい、大変興味のわくご講演でした。

 

ハンス・ヨアヒム・ぺピン 様

 

 

・第121回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: 菊花紋が来た道 −メソポタミアから奈良へ−
 日 時: 2016年 9月28日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 三谷 惠一 (みたに けいいち) 様
      ( 岡山大学名誉教授/IPU・環太平洋大学名誉教授 )
 場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
 
心理学を専門分野として大学で教鞭をとっておられました講師の三谷惠一様は、退官後、中東のフリ人のミッタニ王国と日本との関係を「菊花紋」や地名、人名を手掛かりに解明しようと日々研究されておられ。その研究成果をご披露頂きました。 「菊花紋(きっかもん)」といえば、今日では皇室の家紋として知られていますし、また、パスポートなどにも利用されています。菊は延命長寿の効用のある花とされ、江戸時代には武家の家紋、更には店舗の商標などにも自由に利用され、豊富な種類が図案化され変種も非常に沢山あります。しかし、明治になってからは、菊紋のうち、八重菊を図案化した十六八重表菊が天皇と皇室を表わす紋章として制定されています。 この「菊花紋」は、紀元前より中近東に流行しており、シュメールにおいては王朝を象徴する家紋として使われていた様です。例えば、紀元前2350年頃、シュメール・アッカド王朝の時代に建造されたナラム・シン王の戦勝記念碑には菊の紋章に大変類似した変形十六紋の文様が描かれているそうです。エジプト第18王朝のファラオ・ツタンカーメンの墓から金の十六紋が発見されていますし、バングラデシュにも2500年以上前から十六紋・十八紋の金の篩(ふるい)があるそうです。この様なお話を聞き、「菊花紋」は、メソポタミアを出発点として様々な地域を東漸し、終に日本に到達した文様だと思えました。 また、日本最古の正史である「古事記」は国生みの神話で、イザナギとイザナミの2神が最初に大八島国(おおやしまのくに)を構成する島々を生みだし、次に6島を生むと云うお話です。この記紀に記載されている島々は実在しますし、地理の関係性や地名、人名、物語の内容などを克明に調べると、この国生みの神話も西方各地にその痕跡があり、その起源をメソポタミアの地に見だすことが出来るとのお話も頂きました。

 

三谷 惠一 様

 

 

・第120回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: ベルカントとオペラ 〜あなたも出せる美しい声〜
 日 時: 2016年 8月24日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 井上 敏典(いのうえ としのり) 様
      ( 同志社女子大学教授 )
 場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
 
Klub Zukunftは、来る10月14日(金)にドイツ宮廷歌手(バリトン)のアイケ・ヴィルム・シュルテさんを招き、大阪市中央公会堂でヨーロッパの宗教曲や、ドイツ並びにイタリア・オペラのアリアを中心に歌って頂きます。オペラは、16世紀末のルネサンス後期にギリシャ演劇を復興しようと、イタリアのフィレンツェで始まったと云われています。18世紀になると、特にナポリで隆盛を誇り、その後、何世紀にも亘りイタリア・オペラこそが最高のものであると云う認識が主流となり、どの様な原語を持つ作曲家もイタリア語の台本で作曲した様です。モーツアルトの様なドイツ人作曲家もイタリア語の作品を数多く残しています。多分、ドイツでは宗教的国民的な気風から快楽主義的なオペラという形式自体を嫌ったと云われています。しかし、皮肉なことに、現在ではドイツはカンパニーを持つ歌劇場だけでも全国に80か所もあり、世界随一のオペラ大国になっています。 日本でイタリアやドイツ・オペラの上演が比較的少ない原因は恐らく"言葉の問題"ではないでしょうか?欧米の言語であれば1音符に1単語を当てることができますが、日本語には母音が多く、日本語に翻訳して歌うことが出来ず、どうしても原語上演にならざるを得ません。結局、歌っている内容が「分からない」ということで疎んじられている様に思えます。また、日本人の「発声法」の問題もあろうかと思います。日本語によるオペラの「発声法」は確立されていないと云う見解もある様です。 講師の井上敏典先生は、35歳の時にドイツ留学をされていますし、ご自身がバリトン歌手でもありますが、医学的な見地から「発声法」に関するご研究をされています。オペラではある種の理想的な歌唱法のことを「ベルカント」と云います。所謂、「美しい声」、「滑らかで柔らかい声」のことですが、「美しい声」とは一体何なのか?「ベルカント」の本当の意味合いを探り、声に対する誤解を解きほぐし、実は、誰にでも出せる「ベルカント」を学んでいただきたいと云うことで、お話頂きました。 「歌う時には、お腹から声を出す」と言いますが、井上先生は、声量のある発声には、インナーマッスルを活用する事が必要だそうです。インナーマッスルの横隔膜、大腰筋、骨盤底筋の筋肉を利用して呼吸し発声するのだそうです。その為には、インナーマッスルを鍛えなければならないようです。また美しく歌う為には、母音は鼻声、子音は口先で発声すると良く、裏声の発生は大切で、声帯にはギアチェンジがあるんだとの事。講演の最後に、山田耕筰作曲「赤とんぼ」の歌唱指導をしていただき、「ベルカント」が少し理解できた気がしました。

 

井上 敏典 様

 

 

・第119回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: 淀川および日本における禹王遺跡と治水神・禹王信仰
 日 時: 2016年 7月27日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 植村 善博 (うえむら よしひろ) 様
      ( 佛教大学 歴史学部歴史文化学科教授 )
 場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
 
禹王とは、今から約4千年前、紀元前2070年頃、舜(しゅん)から王位を禅譲され、中国の史書に記された最古の中央集権国家「夏(か)」を創始した人物であり、名を「文命(ぶんめい)」と云いました。禹王は、黄河の治水に成功した土木技術に優れた指導者であり、酒を断って政務に精励した聖王として孔子などからも賞賛されています。 禹王は、黄河や長江では治水神として強い信仰を受ける様になり、中国には、禹王廟や禹に関わる遺跡が多数存在しています。この中国由来の遺跡として、実は日本でも、全国各地に、およそ100件ほどの<禹廟>の痕跡が発見されています。古の人達にとって、水害とは異界からくる恐ろしいもの、神の怒りでしたので、氾濫を恐れて河川の側に"禹(う)"という治水神を祀った祠(ほこら)を作って祈りを捧げていた様です。更に、禹王遺跡は、中国や日本に留まらず、台湾、韓国そして東アジア全域にも広く分布している様です。 今月度の講師の植村善博先生は、ご専門の自然地理学、地誌学の視点から、中国起源の禹王信仰と禹王遺跡が日本のどこに、いつから、いかなる形態で、なぜ分布しているのかを明らかにしようと、研究を続けておられます。特に、今回のご講演では、淀川を中心に日本における禹王遺跡の分布と治水神・禹王信仰の特徴についてお話を頂きました。 調査の結果、日本では、1228(安貞二)年の京都鴨川の氾濫時、旧五条大橋(現在の松原橋近く)に初めて<夏禹廟>がつくられた、という記録があるそうです。また、夏禹廟(燕丹の社とも)が鴨川東岸に祀られたといわれており、京都四条通り沿い南座東の仲源寺(ちゅうげんじ)は、「目疾地蔵(めやみじぞう)」と親しまれているが、江戸時代には、雨止(あめやみ)地蔵と呼ばれ、この「雨止」が転化し「目疾」(めやみ)になり「めやみ地蔵」となったとの伝承が残っているそうである。関西の淀川流域に禹王遺跡が数多く残っており、大阪府三島郡島本町大字高浜にある竹内神社には、境内に夏大禹聖王碑(かだいうせいおうひ)と南無堅牢地神碑(なむけんろうじしんひ)があり、今も神事が行われているそうです。

 

植村 善博 様

 

 

・第118回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: 住吉大社の境内をめぐる 
      − 神職と歩く神域の魅力 −
 日 時: 2016年 6月22日(水曜日) 15:00〜17:00
 場 所: 住吉大社 大阪市住吉区住吉2−9−89
 講 師: 小出 英詞(こいで えいじ) 様
      ( 住吉大社権禰宜 )
 
大阪の人に「すみよっさん」と親しみをこめて呼ばれている住吉大社に直接お伺いして、その歴史や魅力を体感しました。住吉の神様は俗に“海の神”とされており、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三神だそうです。また、神功皇后の新羅遠征とも深い関わりがあるとの事。神功皇后は住吉大社のお力を頂き、強大な新羅を平定して凱旋される途中、住吉大社のお告げにより、この住吉の地に息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)として祀られたそうです。大和政権の玄関口にあたる難波(なにわ)に鎮座して、遣唐使をはじめ大陸との渡航を守り、奈良時代以前より外交・貿易、またあらゆる産業を守護する神として称えられてきています。今日では、“お祓いの神”、“航海安全の神”、“和歌の神”、“農耕・産業の神”、“武の神”、“相撲の神”としても崇められ、毎年初詣には200万人を超える人々がお参りし、大変崇敬をあつめているそうです。神職権禰宜の小出英詞様から、境内をめぐりながら、古代建築の国宝本殿4棟、名物の太鼓橋や数多くの重要文化財について、多彩な逸話と共にご紹介頂きました。源氏物語「澪標」の巻には、光源氏の住吉詣での場面がありますが、「澪標」はあの大阪市標だとか、結婚式の定番の謡曲「高砂」は「住吉明神」が出現し御代を言祝ぐものだとか、薩摩の初代藩主は住吉神社で産まれたとか、御伽草子「一寸法師」の船出の場面は住吉大社である等、住吉大社にまつわるたくさんのお話に、住吉大社が親しみのあるお宮さんとなりました。

 

小出 英詞 様

 

 

・第117回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: 「 體を感じる(気とは?) 」
      −話題のごった煮、さてお味は如何でしょうか?−
 日 時: 2016年 5月25日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 李 阿吽齋 (り あうんさい) 様
      ( 扇町漢方クリニック名誉院長 )
 
「気」とは、中国では古来、自然界に存在するすべての物質の最も基本的な構成単位であり、エネルギーの元であると考えられてきました。この地球上、そして宇宙に存在するあらゆる物質、生命体などはすべて「気」によって存在し、変化し、成長している、と云う考え方です。つまり私達には「気」があるから生きていると考えるのです。
李阿吽齋(り あうんさい)先生をお招きして、中医学の「気」を利用した健康法について、身体を動かす体験をまじえながら解説して頂きました。先生から、「健康と長寿の為には気の流れを良くして蓄える事が必要だとの事。 また、気の流れを良くするとは、血流を良くするという事だ。老化は、血液が流れなくなることから生じる。」というお話をお聞きして、「気」について少し理解できた気がしました。
体の隅々まで血流が良くなれば、手が温まり、お腹が温まる。先生が気を高める「体の前、上、横、後で手をブラブラ振るといった簡単な体操」のご指導いただきながら行った結果、手先がジンジンとして指先まで血が良く通うようになった実感を得ることができました。「血流が良くなる事で血が酸素を運び体の細胞を活性化し、老化を防ぐ」という事かなと納得してしまいました。

 

李 阿吽齋 様

 

 

・第116回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: 『坂の上の雲』の正岡子規と司馬遼太郎
 日 時: 2016年 4月27日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 正岡 明 (まさおか あきら) 様
      ( 正岡子規研究所主宰 )
 
<柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺> は、1895 年(明治28 年)10 月29 日に、正岡子規が旅の途中の奈良で詠んだ俳句だそうです。誰でも知っているこの句は、どこかのどかで懐かしい、正に日本の古里のイメージを定着させました。 正岡子規の妹、律さんの孫にあたり、「正岡子規研究所」を主宰し、子規の仕事を後世に伝える活動に取り組んでおられる正岡明様をお招きして、司馬遼太郎没後20年の今、「司馬遼太郎が正岡子規を通して語りたかった事。交流のあった司馬さんとのエピソードも交えて、病苦の中でも明るく生きた子規の姿と子規を取り巻く人々との友情、その時代背景」等を、子規の身内としての視点でお話頂きました。 正岡明様は、司馬遼太郎と正岡子規が誰でも書ける文章の基礎を作った人物だとお話しされました。司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、封建の世から目覚めたばかりの日本が、登って行けばやがてそこに手が届くと思い登って行った先にある、近代国家や列強というものを“坂の上の雲”に例えました。僅か35 年の短い生涯を駆け抜けた正岡子規は、近代化に目覚めた日本において、俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に亘り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼしました。正岡子規が「死を迎えるまでの約7年間は結核を患っており、寝たきりで仕事の大半を行った。」等のお話をお聞きして、その仕事への思いと壮絶さに感動しました。

 

正岡 明 様

 

 

・第115回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: 「東大寺南大門仁王像の魅力 〜仏像鑑賞の入門〜」
 日 時: 2016年 3月30日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 鈴木 喜博 様
      (奈良国立博物館 名誉館員)
 
我が国最大の木彫像の一つである東大寺南大門の仁王像は、鎌倉時代の建仁3年(1203)に 造立され、8mを超えます。この仁王像が造立以来初めての「平成大修理」の当時、 中心的に携わっておられた奈良国立博物館の鈴木喜博様にお越し頂き、修理当時のデジタル写真等を ご紹介頂きながら、解体作業の様子、仏像の魅力などを解説して頂きました。
この仁王像はわずか69日で造られたと云われており、門の、向かって右側に吽形(うんぎょう)、 左側に阿形(あぎょう)が安置されていますが、これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆に なっているとの事です。 その巨大な仏像は、昭和63年(1988)から平成5年(1993)まで5年の歳月をかけて 「平成の大修理」が行われました。造像以来785年目の解体修理ですから大変な出来事 で、「南大門仁王像大修理〜運慶に挑んだ30人〜」というNHKの「プロジェクトX」という 番組でその解体修理の模様が放送されました。 像内からは多数の納入品や墨書が発見されました。発見された銘記や納入経の奥書から 注目すべきいくつかの事柄が判明し、その結果、巨大な木彫仏の作り方や作者の実態が 明らかになったそうです。
例えば、大仏師は運慶と快慶の他、定覚と運慶の息子である湛慶が参加していた事、 そして、運慶と快慶の二人仏師体制が敷かれ、その上に立つのが運慶であり、 総合プロデューサとしての役割を果たした事が明らかになったそうです。 また、運慶を中心とした4人の大仏師と、12または25名の小仏師で構成される 仏師集団についても明らかになりました。 更に、巨大木造の寄木造の構造も明らかになり、製作途中で造形上の修正が行われ。@視線を下げる A臍の位置を下げるB両腕の位置を変更する、といった設計変更を行う造像法が判明したそうです。

 

鈴木 喜博 様

 

 

・第114回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
 テーマ: 「大衆人気商品が育てた先端技術」
 日 時: 2016年 2月24日(水曜日) 16:00〜17:30
 講 師: 中村 収三 様
      (一般社団法人近畿化学協会)
 
どのような大発明も、我々の日常生活になくてはならないような“成熟した商業技術”に 成長して初めて人類に多大な利便をもたらし、巨大な富を生むようになります。 大発明も、軍事、航空、宇宙などの用途にとどまっている間は、一般大衆にはそれ程大きな 利便性をもたらすことも、巨大な富を生むこともありません。 しかし、その為の技術の開発には、巨額な資金が必要で、国家予算が際限なくつぎ込まれました。 戦後の日本は、これら先端技術を“成熟した商業技術”に育て、これを応用した“大衆人気商品” を生み出してきました。 落ちたB29のレーダ用高周波ケーブル・シールド材にポリエチレンを発見した事で、 1958年に爆発的に流行ったポリエチレン製のフラフープが生まれた事。 電話交換機のリレーに代わるものとして、世紀の大発明まずは1948年にゲルマニウムトランジスタが 発明されトランジスタラジオが大衆商品化され、やがてシリコントランジスタによる コンピュータや電子電話交換機が商品化され、技術の成熟と共に巨大な市場を生み出した事。 等の事例を挙げ、大衆人気商品が育てた先端技術について中村収三様にお話を 頂きました。

 

中村 収三 様

 

 

・第113回月例会 −歴史・文化に親しむ会− 
 
 テーマ: 「灘酒の伝統文化と蔵元の暮らし」
 日 時: 2016年 1月27日(水曜日) 16:00〜17:30
 場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
 講 師: 辰馬 朱満子 (たつうま すみこ) 様
      (白鷹株式会社 取締役副社長)
 
白鷹株式会社は、文久2年(1862 年)に初代の辰馬悦蔵氏が辰馬本家(白鹿醸造元)より分家して、新たに酒造業を興して始まり、今日に至っている蔵元です。そもそも酒造りというのは、お米や水は元より、その地域の気候風土、杜氏や蔵人などの人々を始め、地域に根差した様々な条件が整って始めて成り立つ事業ですので、蔵元は地域社会に対する感謝の意をこめて、多大な文化的な貢献もしてきておられます。 白鷹も「財団法人辰馬考古資料館」の建設など多くの文化事業にも携わっておられます。白鷹の文化施設である「白鷹禄水苑」は、先代社長の辰馬寛男氏の構想で建設されたものですが、そこでは、代々西宮で造り酒屋を営む蔵元の「暮らし」を通して、灘の酒の歴史や伝統とともに、そこに生きた人々の生活文化を今に伝えることを目指しておられます。また、辰馬朱滿子様ご自身は、「白鷹禄水苑」を舞台に、伝統芸能や日本酒の文化を現代に融合させようと、文化活動を積極的に展開されています。「酒の町」西宮とともに歩んできた蔵元、北辰馬家の人々の人物像も拾いつつ、「灘酒」の「灘酒」たる所以や、かつての造り酒屋の暮らしぶり、そして地域における蔵元の役割などについてお話をして頂きました。

 

辰馬 朱満子 様 単書

 

 
 
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