・第112回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「一人ひとつの個性・・音楽療法の現場から・・」
日 時: 2015年12月16日(水) 16:00〜17:30
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
・講 師: 水野 惠理子(みずの えりこ) 様
(Ph.D、認定NPO 法人 アゴラ音楽クラブ理事長)
30年余りに亘り、音楽を通して知的障害を持つ子どもたちと関わってこられました。
他者と相互関係が築きにくいけれど、際立つ芸術的個性を持つ自閉症の人たちや、知的能力は劣るけれど陽気で心優しいダウン症の人たち等、知的障害を持つ子供達と活動する中で見えてきたこと、また様々な研究手法を用いて分かってきたことなどをご紹介頂きました。
同時にまた、多くの先駆者がいるドイツの音楽療法事情についてもお話し頂きました。
水野惠理子様は大学で教える研究者であると同時に、認定音楽療法士として現場でもご活躍中です。
「日本人である私が手間暇を惜しまないで未来に残せるものは何だろう?」と考えさせる御講演でした。
・第111回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「異形の建築家 アントニ・ガウディ」
日 時: 2015年11月25日(水) 16:00〜17:30
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
・講 師: 加嶋 章博(かしま あきひろ) 様
(摂南大学理工学部建築学科教授)
バルセロナの町は19世紀後半に城壁を越えて町が拡張されていきますが、新しく作られていく町並みの未来をガウディはどのように思い描いたのか、町と作品を通じて解説して頂きました。
1852年6月25日スペインのカタルーニャ州タラゴナ県に生まれたアントニ・ガウディは地中海を代表する建築家で異形の建築家と呼ばれていますが、「自然は偉大な教科書である」という言葉を残しているように、単純に奇を衒った造形を好んだわけではないそうです。
19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した「アール・ヌーボー(フランス語)」と呼ばれる新しい芸術の潮流が生まれました。これは、花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用を特徴としたものだそうです。
そして、スペインのアール・ヌーボー版とも言える建築様式を生み出した巨匠の一人がガウディだとの事。
彼の建築は曲線と細部の装飾を多用した生物的な建築を得意とし、ガウディは、「美しい形は構造的に安定している。構造は自然から学ばなければならない。自然の中に最高の形がある」と信じていたようです。実際のところ、彼の建築は、大変居住性の良い設計がされているそうです。また、町並みの創造にも取り組んでおり、自然と芸術に囲まれて暮らせるマーケットを含む新しい60件の町並み作りに取り組んだ跡が、現在のグエル公園だとの事。
ガウディの未完作品であるバルセロナにあるサグラダ・ファミリア(聖家族贖罪教会)は、1882年3月19日に着工され、完成までに300年はかかるだろうとされていましたが、公式発表ではガウディの没後100周年目の2016年には完成するとされ、およそ約144年の工期で完成する事になるそうです。
「日本人である私が手間暇を惜しまないで未来に残せるものは何だろう?」と考えさせる御講演でした。
・第110回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「EUの父 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー 」
〜 波乱に満ちた日系貴族のファミリー・ヒストリー 〜
日 時: 2015年10月28日(水) 16:00〜17:30
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
・講 師: 浜本 隆志(はまもと たかし) 様
(関西大学名誉教授)
現在、EUはギリシャ問題、大量の難民流入問題などで大きく揺れ動いています。順調に発展するや
に思えたEUですが、未曾有の難問を抱え、混乱が続いています。このEUの基本構想を提案した
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー(1894−1972)について、お話しをしていただきました。
彼の父ハインリヒはオーストリア=ハンガリー帝国の伯爵で、東京で特命全権大使を務めていました。
在任中、日本人青山光子(本名みつ)と知り合い、東京で結婚し、二人の子どもが生まれました。
このうちの一人が、日本名が青山栄次郎のリヒャルトなんだそうです。その後、リヒャルトは、一家で
帰国し、ボヘミアのロンスペルク城に住み、成人しました。リヒャルトは、第一次世界大戦の悲劇を
繰り返さないために、ウィーンで政治活動に従事し、「パンヨーロッパ運動」を提案します。
ヨーロッパの統合による平和と、関税の撤廃等を夢見た運動で、EUの関税撤廃や統一通貨構想の
原点だと言えます。しかし彼はナチスに追われ、ヨーロッパを転々とし、最後にアメリカへ亡命します。
ようやく第二次世界大戦後、EUの前身である「欧州石炭鉄鋼共同体」が設置され、リヒャルトの
構想が具体化しました。戦後、スイスに帰国したリヒャルトは、ヨーロッパ統一に尽力した人に
与えられる「シャルルマーニュ賞」を受賞しています。EUの生みの親は、フランス外相のシューマン
といわれているが、リヒャルトを「EUの父」と評価する人も多いそうです。元総理の鳩山一郎は、
リヒャルトと親交が深く、「パンヨーロッパ」に感銘して、日本友愛青年同志会を設立したそうで、
日本も少なからぬ影響を受けていると思えます。リヒャルトが支持されたのは、母親が日本人の
光子で妻がユダヤ人である等、人種的な偏見が無く、インターナショナルな立場に立って行動できた
からだとの事。日本人である光子の存在は、間接的ではありますが、EU設立に大きな役割を
果たしたと思え、何となく誇らしげな気持になりました。また、現代のEUの経済問題、移民問題と
大きな課題満載ではありますが、「パンヨーロッパ運動」を引き継いだ人達の知恵と協力で解決され、
素敵なヨーロッパが築ければと強く感じました。
・第109回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「小鼓(こつづみ)で知る能のリズム」
− 徒然草の知られない世界 −
日 時: 2015年 9月30日(水) 16:00〜17:30
場 所: 大阪YMCA国際文化センター904/905(9階)
・講 師: 久田舜一郎(ひさだ しゅんいちろう) 様
( 大倉流小鼓 )
大倉流小鼓奏者で重要無形文化財総合指定保持者の久田舜一郎様をお招きしまして、小鼓の演奏とお話で「能」の
リズムに触れてみました。「能」は、笛、小鼓、大鼓、太鼓と謡による音楽劇です。そもそも鼓(つづみ)のルーツはシルクロードにあると云われています。特に、中国では沢山の種類の鼓が発生し、またそれらの多くは7世紀の初めころ日本にも伝わり伎楽に用いられました。こうして中国から伝来した鼓も、日本人の感性に合わせて改良が加えられ、やがて日本特有の小鼓、大鼓が完成しました。小鼓は「能」700年の歴史と共に発達完成した、世界一繊細かつカラフルな音を奏でる打楽器だと云われています。本来はリズム楽器ですが、手で打つ奏法と緒を自由に操作することによって数種類の音色を打ち分けることが可能となり、中世・近世以降の邦楽に大きな影響を与えました。
・第108回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「榎木(えのき)の僧正」はなぜ怒ったのか
− 徒然草の知られない世界 −
日 時: 2015年 8月26日(水) 16:00〜17:30
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
・講 師: 光田 和伸 (みつた かずのぶ) 様
( 国際日本文化研究センター 准教授 )
『徒然草』といえば、「つれづれなるままに・・・」という書き出しで始まる、余りにも有名な古典です。ご講演いただいた光田和伸先生によりますと、隠者の文学などでは無く、吉田兼好の愛する女性との出会いから別れまでの思い出が書かれた恋物語であり、人生観、思想、哲学が織りこまれた世渡りの知恵等がつまったものだと話されました。『徒然草』は序段を含めて全部で244段から構成されていますが、兼好自身の恋物語は、この中にバラバラに連歌の方法で8つの章段として散りばめ隠されいるんだそうです。
本講演のテーマである「徒然草、第45段の良覚僧正(榎木の僧正)」は、僧房の門前に大きな榎木(えのき)があったので、人々から「榎木の僧正」と呼ばれた為、激怒した僧正は木を切り倒してしまいましたが、それでも切り株が残っていたので「切り株の僧正」と呼ばれたので僧正の怒りはますますエスカレートし、とうとう切り株も掘り起して捨てた処、その掘った穴が大きな堀のようだったので「堀池の僧正」と呼ばれるようになったというお話です。学校の指導要領には、「世間の評価に一喜一憂してはいけないという事」として書かれたものがあるが、先生は、「僧正は、本当は何と呼んでもらいたかったのか?」という視点で読んで欲しいと話されました。榎木の・・等の呼び方は、下賎のものに付けられる二つ名であり、この二つ名で呼ばれた事に腹を立てたのであって、本当は、「二位の僧正」と呼んで欲しかったのだとの事。一位である太政大臣の次に偉い二位の貴族であるのに、下賎のものに対する呼び方で呼ばれた事への怒りなんだそうです。
徒然草の他の段も含めた解説を通して、東国の文化と貴族文化の両方に詳しい人間味あふれる兼好像が少し理解できるようになりました。
・第107回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「江戸時代の豪商「淀屋」の歴史に学ぶ」
日 時: 2015年 7月22日(水) 16:00〜17:30
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
・講 師: 毛利 信二(もうり しんじ) 様
( 淀屋研究会 代表 )
謎に包まれた「淀屋」の実像に迫る取組みを続けられ、今年で設立10周年を迎えられた民間グループ「淀屋研究会」の毛利信二代表にお越し頂き、その研究成果をご披露して頂きました。「淀屋橋」といえば元々は土佐堀川に掛かる橋の名前ですが、その淀屋橋南詰西側に淀屋屋敷跡と淀屋の碑が残っているそうです。
「淀屋」の初代当主淀屋常安(よどやじょうあん)は、伏見城大手門の工事現場周辺に散在する巨石撤去を他の業者の1/10の価格で引き受け、掘った穴に滑り落として埋める、という周囲の意表を突く方法で解決した事により豊臣秀吉が目を付けた事が豪商となる第一歩であったそうです。秀吉が大阪城拡張時に、大阪に移り材木商を営んだが、大阪夏/冬の陣には徳川家康/秀忠に御陣を提供したり、大阪城落城時には戦場の後始末をする等して地盤を固め、さらに、青物市場設立、日本初の北浜(淀屋)米市をつくる等、全国より人・モノ(米・物産等)・カネや情報を大坂に集め、「天下の台所」と呼ばれる近世大坂の繁栄の礎を築いた偉人だそうです。
「淀屋」は代を重ねて、米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築きましたが、その財力が武家社会にも影響する処となり、1705年、5代目の淀屋廣當の時に幕府より闕所(けっしょ)処分(財産没収と所払い)となりました。処が、4代目の淀屋重當はこの事態を予見していたのか、現在の鳥取県倉吉市出身の番頭牧田仁右衛門に暖簾分けし、故郷で「牧田淀屋」を開かせており、この子孫が淀屋清兵衛を名乗り58年後の1763年に「大阪淀屋」を再興します。しかし、再興された「淀屋」も1859年には店を閉じたと云われており、その莫大な資金が明治維新の財源になったのではとか、とにかく栄華と悲哀の落差が大きく、謎とミステリーが多い淀屋だそうです。
・第106回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「一神教は不寛容か?−日本文化論として考える」
日 時: 2015年 6月24日(水) 16:00〜17:30
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
・講 師: 小原 克博 (こはら かつひろ) 様
( 同志社大学 神学部 教授 )
同志社大学神学部の小原克博教授にお越し頂き、一神教をめぐる今日の問題と日本文化についてお話しいただきました。イスラム過激派組織IS、通称「イスラム国」の台頭により世界各地での同時多発的テロ問題、欧州での風刺画など言論の自由と宗教の尊厳のせめぎあいの問題、シリアを始めとするイスラム圏からの難民増大問題等、大きな政治課題となっています。このような状況は、宗教の問題なのか、政治の問題なのか、文化の問題なのか、問題の本質が分からないまま事態が悪化している様にも思えます。日本ではイスラームを始めとする一神教に対する理解が深まっているのか?「一神教は不寛容」か?等について、改めて考えさせられる講演でした。
まずは、無宗教であることを強調しがちな日本人について、これは無神論ではなく「思考停止の状態だ。政治でいう無党派に似ている」と話されました。この原因は、どんな宗教があって、何が違うのか等について、学校や家庭で、何も教えられてこなかったからだ。葬式の時に初めて自分の家の宗派を知る人も多い」と話され、正直ドキッとしました。
また、小原さまは、「宗教(伝統)に関する自己理解と他者理解を欠いているから不寛容が増大し、結果、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの一神教は不寛容(排他的/独善的/好戦的/自然破壊的)であるのに対して、多神教は寛容(協調的/友好的/自然と共生的)であるとのディスコースが定着してしまう。」と話されました。イスラム教について詳しく知らない為に、特定のイメージ(偏見な眼)を拡散させる。結果、それが構造的暴力となる危険性をもっている事を強く再認識しました。
・第105回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「城郭石垣の構築技術から学ぶ」
日 時: 2015年 5月27日(水) 16:00〜17:30
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
・講 師: 西形 達明 (にしがた たつあき) 様
( 関西大学 環境都市工学部 教授 )
「城郭石垣」に焦点を当て、関西大学の西形達明教授にお越し頂き、工学の立場から「城郭石垣」の性質とその安定性について、また、文化財としての「城郭石垣」において実施されている維持補修の現状について、技術的な角度からお話頂きました。
兵庫県の竹田城跡の城郭石垣は多くの観光客で賑わっておりますし、つい最近では、姫路城の改修工事が終わり、見事な“白鷺城”が姿を見せていますので、城郭ツアーが益々加熱すると思われます。そもそも「城郭」というのは防備を目的とした施設で、古代から存在しており、記録に残っているだけでも25,000ヵ所以上ありましたが、江戸時代に入ると世情も安定し、江戸後期には約200ヵ城ほどの城郭が存在していた様です。更に、明治維新後は廃城令や戦争等で消滅してしまい、往時のまま現存しているのは、今や12ヵ城のみとなっています。城郭が「石垣」で構成される様になったのは、戦国時代(16世紀後半)からで、江戸時代初期(17世紀前半)にかけて集中的に築造されました。我が国の「城郭石垣」は接着材を用いない空積みであることや曲線形状をもつなど、他に類を見ない独自の形状と構造を有しており、世界に誇るべき我が国の建設文化です。しかし、貴重な文化遺産である「石垣」遺構の中には、老朽化が進行し、崩壊の危険に直面しているものもあり、数多くの修復事業が実施されるようになってきました。
西形先生によりますと、城郭石垣の研究目的は、「石積み構造の安定性の原理解明と新技術としての活用」はもちろんの事ですが、文化財としての修復技術を開発する事を目的としており、特に修復にあたっては、オーセンティシティ(原状に復する事)とリバーシビリティ(工学的に元の状態に戻す)を考慮した技術の開発が必要との事。この目的を達成するために、現状の石垣形状を把握する為の3Dスキャナー計測、石垣断面形状計測、築石間の摩擦試験、城郭石垣の加振実験、補強工法適用実験等を行うと共に、工学技術による補修対策を提案活動を行っているとの事でした。
ただ、その文化遺産を観光資源として活用できる安全確保の為の修復と、原状に復する文化遺産の修復とは、相反するものがあり、相反する事をどのように工学的に解決するかが大きな課題であるとお話を締めくくられました。
・第104回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「西周とオランダとの出会い」
日 時: 2015年 4月22日(水) 16:00〜17:30
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
講 師: 高坂 史朗 (こうさか しろう) 様
( 大阪市立大学名誉教授 )
2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、吉田松陰の生きた時代を描いていますが、文政12年(1829年)2月3日、石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)に生まれた西周(にし あまね)もこの時代の人でした。西も嘉永7年(安政元年、1854年)、江戸で蘭学修業中に津和野藩を脱藩しています。前年ペリーが浦賀に来航し、世情喧噪ななか沿岸防備の為、急遽江戸出府を命ぜられ、江戸藩邸でオランダ語の文典の手ほどきを受け、蘭学を学びたいというはやる気持ちを抑えきれず脱藩を決意した様です。
脱藩後は、手塚律蔵のもとで学び、手塚の推挙で蕃書調所に出仕していましたが、文久2年(1862年)軍艦組内田恒次郎、榎本釜次郎らに随行しオランダへ向けて旅立ちました。オランダではライデン大学のフィッセリング教授のもとで、「法理学」「国際公法学」「国法学」「経済学」「統計学」を学んで慶応元年(1865年)に帰国しています。帰国後は、特に西洋の哲学思想を我が国に導入した功績が大きく、日本近代哲学の祖と呼ばれ、哲学用語のほとんどは西の訳出によるものだと云われています。西は日本の近代化を理論づけるスケールの大きな役割を果たしました。
大阪市立大学名誉教授の高坂史朗先生にお越し頂き、オランダに向かう船中で西はAan den belanghebbenden(関係者各位)という手紙に留学への思いを語っていますが、その内容や、オランダ・ライデンでの生活、更にその、後日本に与えた影響などをご紹介頂き、同時に初めてドイツに足を踏み入れた日本人榎本武揚と赤松大三郎の足跡にも触れて頂きながら、当時、西がどの様にオランダと出会い、どの様に西洋の思想を受容していったかを解説して頂きました。
・第103回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「国境の山寺」
日 時: 2015年 3月25日(水) 18:00〜20:00
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
講 師: 上原 真人 (うえはら まひと) 様
( 京都大学教授 )
日本では仏教受容後、7世紀後半から8世紀初め迄、いわゆる白鳳時代に仏教寺院の建設ラッシュの時代が到来しました。これらの寺院は一般に古代寺院と云われ、当時は全国に約700ヵ寺以上あったと云うことです。その背景には日本の古代国家建設に古代寺院が大きな役割を果たしていたと云うことが云えるようです。
都以外の地方では、一般の民の多くは板ぶきや草ぶきの家で生活している訳ですから、村の中にそびえ立つ瓦ぶき屋根の寺院は特別な建物で、それを建立した豪族の権勢をはっきり明示的に主張するに充分な輝きをもっていた様です。お寺の造営と経営には、勿論、莫大な費用がかかりますので当然豊かな経済力が必要ですが、同時に寺院を建設する為の技術や、仏教教義を理解し、宗教行事を行うノウハウも必要でした。つまり、中央からのハード・ソフト両面にわたる支援がなければ成り立ちません。言いかえると地方豪族にとって古代寺院を造営し経営する事は自身の経済力と同時に中央との結び付きをも誇示する手段だった様です。また、他方、中央政権はこの様に地方支配の方式を確立しようとしました。
京都大学の上原真人教授をお招きして、「古代の山寺には、国境に立地する例が少なくない。その意味を、古代における国境の機能や維持管理主体を検討することで説明し、平安仏教成立以前の「初期山寺」造営を推進した人物として、藤原武智麻呂の存在をクローズ・アップする」と云うお話をして頂きました。尚、藤原武智麻呂(680〜737)とは藤原不比等の長男で飛鳥時代から奈良時代前期にかけて活躍した藤原南家の祖となった人です。
・第102回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 「旧暦ライフを楽しむ」
日 時: 2015年 2月25日(水) 18:00〜20:00
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
講 師: 松村 賢治 (まつむら けんじ) 様
(一般社団法人 南太平洋協会理事長)
日本はそれまで使われていた『旧暦』を、明治5年12月2日(西暦1872年12月31日)の翌日をもってグレゴリオ暦(太陽暦)に改暦しました。福沢諭吉などが改暦を擁護する論陣を張るなど、当初は相当な混乱もあった様ですが、国際化が進み、世界各国の人々との交流が進む現在では世界共通のカレンダーは欠かせないものとなっています。
しかしながら、松村さま曰く、農業の他、漁業や衣料業界でも旧暦で事業計画を立てるところが増えているそうです。
そもそも『旧暦』は自然界の運行を人間の暮らしに合わせて定義したもので、魚の回遊や植物の実りなど自然界の現象は『旧暦』が示す様に動くことが多いと云われています。「勿論必ずしもその通りに季節が巡る訳ではありませんが、これまでの経験では75%位は『旧暦』で説明できる」と話されました。
太陽暦だけで一年の季節を読み、農作業の目安にしていた様ですが、なぜか毎年同じ日に種まきなどを行ってもうまくいかない。動植物の動きをみているとどうも月の運行が影響している様にみえる。そこで太陽と月、双方の動きを計算して暦を作りそこに経験値を加味したのが太陰太陽暦『旧暦』と云われています。それが6世紀頃日本にも伝わり、その後1,400年もの間日本の気候風土に合わせて改暦が重ねられ、日本の文化に深く根付いていたそうです。
旧暦をもっと私達の生活に取り入れるべきで、旧暦の教育を学校で行い現状を大変残念がっておられました。
・第101回月例会 −歴史・文化に親しむ会−
テーマ: 能楽ワークショップ
〜 想像力が創造する能の世界 〜
日 時: 2015年 1月28日(水) 18:00〜20:00
場 所: 梅田エステート・ビル 5階会議室
講 師: 辰巳 満次郎 (たつみ まんじろう) 様
(宝生流能楽師)
「能楽」は、ユネスコによる世界無形文化遺産第1号に認定されるなど、世界で認められ、国内でも、一応我国を代表する伝統芸能とされています。今月度は、宝生流能楽師の辰巳満次郎様にお越し頂き、能楽の歴史や技法等のお話をお聞きしながら、能の所作体験や能の歌唱体験をする楽しい講演会でした。講師の方のご指導のもと、能のカマエや喜怒哀楽の所作を実際にやってみたり、有名な「高砂や〜」を参加者全員で謡いました。また、能面についても本物を拝見させていただきながら解説していただきました。室町時代から江戸時代につくられた、小面(こおもて)、平太(へいた)、生成(なまなり)、老女(ろうじょ)等の面は、どれもジンと心に響くものでした。「なるべく動かないで演じる」、「どんな場面も同じ舞台で演じる」という事をお話をお聞きして、能は「観客に想像力を求めて見てもらう」演劇だという事を新たに認識しました。